幼少の頃から日常の光景は、ふたりの経営者の姿だった。

佐藤裕英のプロファイル

両親がそれぞれ別の事業を営む家庭で育つ。
幼少の頃から日常の光景は、ふたりの経営者の姿だった。
顧客をつくり良い関係を築くこと(取引先家族の接待にはもちろん駆り出された)、市場の動向にきちんと対応しないといけないこと、事業は継続させるのが大変だということ、経営者は家族や従業員のために粉骨砕身すること。

そんな刺激的な家庭環境だったからか、学校はのどかすぎると感じて関心が薄れる。高校入学から大学卒業までのあいだ、授業をサボって遊びまくる。もちろん単位取得は危ぶまれる。
その一方で父親の現場まで運転手をしたり、母親の喫茶店をやり直すにあたって、内装、メニュー、コーヒーの味から店長の人選まで店舗づくりを手伝うなど、実質的に事業に関わり始める。

大学卒業後、いったん米国を放浪したうえで、外国資本M&A仲介会社に潜り込み、社長のカバン持ちとして自身のキャリアをスタート。
まだ日本国内では「M&A」という言葉すら知られていなかった時代に、会社売買の意思決定者との面談の場数を踏む。そのなかで会計の知識の必要性をひしひしと感じ、米国公認会計士(USCPA)の資格試験にチャレンジすることに。
今まで遊んでばかりでろくに勉強したことがなかったので試行錯誤の末、独自の勉強法を編み出してしまう(このメソッドは今も人材育成の場で活用している)。おかげでUSCPAの試験には無事合格し、直後より日系企業の経理部門などで実績を重ねる。

30歳を過ぎた頃、はじめて自分自身の事業の立上げに取組む。試験に合格したスキルを活かして英文会計学校を開業。しかし大資本を持つ競合が出現、広告宣伝戦争に敗れて3年生存できず。
会社経営に会計知識は必須だが、それだけで十分なわけではないと実感する。

平成不況のなか、やむを得ず再就職活動。外資系不良債権ファンドに入社。
折しも父親の事業が破綻、連帯保証人として10億円の借金を被る。
しかし、ここから人生のエンジンのギアがアップする。

不良債権投資という、またしても当時真新しい業界で先例も競合もないなか、本場仕込みの会計知識も総動員、自分たちの創意工夫だけで事業を猛進させる。エクセルの中で泳ぐ夢を見るほどがむしゃらに打ち込んでも疲労を感じない。なぜなら、仕事がとんでもなく楽しかったから。見事借金を完済する。

その後、引き抜きなどでステップアップ。同業種、事業投資、不動産ファンドなどを転戦。ポジションのアップと共に、業務の仕組化、効率化によりチームで成果を出す手法にフォーカスする。
USCPA受験の際に実は得意だと気づいたメソッド開発、フレームワークの透視のスキルをフル稼働し、協働の思想、エコシステムのスキームなど、独自性が高く真似できない手法を次々導入して成果を出し続ける。

現在は、事業投資会社の経営、会計事務所のコンサルタント等を務めながら、自身のライフワークとしてオーナー経営者のサポート、育成、コンソーシアムの構築に取り組んでいる。